早期併合に反対する理由
現在の保護国化状態でも実質的には併合した場合と同じく朝鮮を支配でき、又韓国侵出の口実として用いてきた『韓国の独立富強』という建前を捨てることは却って益なしである。
上記の理由に加え、財政支出の増大を招くことからも早期併合は勧められず、今は国内の産業育成に力を注ぐべきである。
ということであった。
しかしその後、韓国国内での義兵闘争はますます苛烈となり、また朝鮮宮廷の懐柔も伊藤が想定したほどの効果は上がらなかった。
業を煮やした伊藤は自分の取った方針が不適切だったと感じ、遂に1909年7月6日の閣議で他の閣僚の進言を受け入れ積極的併合策への転向を明言した。
韓国侵出の実質的な総責任者であった伊藤の方針転換により韓国併合への障害は無くなり、同会議で日韓併合が正式決定された。
1909年10月26日に伊藤博文は安重根によって暗殺されたが、既に韓国併合の流れは決定的なものとなっていた。
日本政府は韓日合邦を掲げる韓国一進会や日韓併合派の李完用とともに交渉をすすめ、1910年8月22日、日本の軍隊が王宮を取り囲み、反対派を威圧するという厳戒状態の中日韓併合条約は締結された。
上記の理由に加え、財政支出の増大を招くことからも早期併合は勧められず、今は国内の産業育成に力を注ぐべきである。
ということであった。
しかしその後、韓国国内での義兵闘争はますます苛烈となり、また朝鮮宮廷の懐柔も伊藤が想定したほどの効果は上がらなかった。
業を煮やした伊藤は自分の取った方針が不適切だったと感じ、遂に1909年7月6日の閣議で他の閣僚の進言を受け入れ積極的併合策への転向を明言した。
韓国侵出の実質的な総責任者であった伊藤の方針転換により韓国併合への障害は無くなり、同会議で日韓併合が正式決定された。
1909年10月26日に伊藤博文は安重根によって暗殺されたが、既に韓国併合の流れは決定的なものとなっていた。
日本政府は韓日合邦を掲げる韓国一進会や日韓併合派の李完用とともに交渉をすすめ、1910年8月22日、日本の軍隊が王宮を取り囲み、反対派を威圧するという厳戒状態の中日韓併合条約は締結された。
update:2010年02月22日
